2012年御翼7月号その3

『赦しをもたらす5つの方法』

 人が救われるのに、律法に頼れないことをとても分かりやすく説明してある記述が、『赦しをもたらす5つの方法』(いのちのことば社)という本に載っていた。
 1970年代に人気を集めた映画『ある愛の詩』の中に、「愛とは、一度も『ごめんね』と言わずにすむということだ」という有名な台詞がでてくるという。(これが律法を基準にした生き方である。決して相手を傷つけるようなことはしない、というのだ。)しかし、事実は全く逆である。愛とは、「ごめんね」と言うことであり、本物の愛は、過ちを犯した者の謝罪と不当に扱われた者の赦しを含んでいるのだ。これが、回復した愛の関係への道である。そしてすべては、傷つけてしまった相手に対して、適切な謝罪の言葉を学んで語るところから始まるのだ。
 以下は、同書からの引用である。
 謝罪は確実に学び取ることができる技なのです。私たちの研究で発見したことは、謝罪には五つの基礎的な側面があるということです。私たちはこれらを「謝罪の五つの言語」と呼んでいます。それらのどれもが大切なのですが、個人によってその中の一つか二つが、他の言語よりもさらに効果的にコミュニケーションを高める言語となります。あなたが相手にとってもっとも効果的な謝罪の一次言語を語れば、その人はあなたを赦しやすくなります。五つの謝罪の言語を理解してそれを適用するときに、あなたのすべての人間関係は大いに向上するはずです。(エフェソ4:32 「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。」)

 

五つの謝罪の言語

  • 謝罪の言語1 後悔の念を伝える――「ごめんなさい」
  • 謝罪の言語2 責任を認める――「私が悪かった」
  • 謝罪の言語3 償いをする――「何をしたらいい?」
  • 謝罪の言語4 真に悔い改める――「二度としないように努めます」
  • 謝罪の言語5 赦しを請う――「赦してください」

 ほとんどの人は、この中の一つか二つを自分の謝罪の言語としています。それが、他の言語よりもさらに誠実さを深く伝達する主要言語です。効果的に謝罪をするとき、これら五つの言語すべてを含む必要はありません。
 なぜ後悔の念を伝えることが大切かというと、自分が相手を傷つけてしまったこと、失望させたこと、迷惑をかけたこと、信用を裏切ったことを後悔することは、相手と同じ立場に立つことを意味するからである。真の謝罪は、後悔の中から生まれる。不当な扱いを受けた相手は、感情的な傷を受けたのだ。そこで、加害者側にもその同じ痛みを感じてほしいのである。どれほど深く傷つけたのか、そのことに加害者が本当に気づいているという証拠が欲しいのだ。その証拠が、後悔の念であり、それが見えないと、謝罪が不十分・不誠実だと感じる。単に問いつめられるのを避けたいがためにごめんなさい″と言うことは、不誠実だと思われてしまう。
 時に私たちは、他人を傷つけてもそのことに気づいていないことがある。しかし、相手を傷つけたのが意図的でない場合にも、後悔の気持ちを伝えることによってよい人間関係は大いに育まれるのだ。例えば、私たちはエレベーターから降りたときに誰かにぶつかったら、その人に「ごめんなさい」と言う。わざとぶつかったから言うのではない。何気ない動作が引き起こした、その人の迷惑や苛(いら)立(だ)ちに共感するからである。これと同じ原理は親密な関係にも当てはまる。自分の行動が夫や妻を傷つけたことに気づかないかもしれないが、気づいた時点で、「私の態度があなたを傷つけた。本当にすまなかった。傷つけるつもりはなかった」と言えばいいのだ。

謝罪の言語5 赦しを請う

 

なぜ、「赦して欲しい」と言うことが困難なのか。1)それは、自分の非を認めることであり、2) 二人の関係の将来を相手の手に委ねることを示すからである。自分の間違いを認め、後悔の念を表現し、償いをすると申し出た後に、「赦してくれますか」と相手に質問をするのだ。それから先の二人の関係は、その相手の決断にかかっている。赦しを請うという行為によって、私たちは主導権を手放すのであるが、支配的傾向の強い性格を持つ人にとって、これは困難なことである。
 「私の意見では、ごめんなさい″ということばは自分の非をきちんと認めていないと思います。うちの二歳の子どもも『ごめんなさい』としょっちゅう言います。でも、『赦してください≠ニ言いなさい』と言うと、目を丸くして唾を飲み込むんです。二歳児でさえ、赦しを請うということが自分の非を認めることだ、とわかっていますね」
 以上のことを理解できたある夫は、妻に「僕を赦してくれる?」と言うことができた。それを聞いた妻は涙を浮かべ、夫に抱きついて、「もちろんよ!」とはっきり返答することができた。夫が妻に謝罪の言語を語ったときに、二人の関係は回復された。多くの人が拒絶を恐れるが、これもまた、赦しを請うのが難しいもう一つの理由なのだ。しかし、神がキリストによって私たちを赦してくださるのだから、互いに赦し合おう。
 一方、ヨハネ第一 1章9節 に「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」とある。罪を告白して悔い改めない人の罪を神が赦す、とは旧新約聖書のどこにも書かれていない。過ちを犯す夫を、その過ちを行い続けているのに、「赦しなさい」と妻に勧める牧師は、神ご自身さえもなさらないことをその女性に要求しているのだ。悔い改める者を神がいつも快く赦してくださるように、あなたがたも悔い改める者をいつも快く赦しなさい、というのがイエスの教えなのだ。何の謝罪もない場合、クリスチャンである私たちは、神の正しいさばきにその人を明け渡し、忍耐を通して自分の怒りを神に明け渡そう。

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